十字架の罰

  
■第五章■   

その夜。やはりライエルは姿を現さなかった。

寝ぼけた頭を起こすと、光隆は愛刀を持って家を出た。光隆の習慣だった。敵がいようといなくとも、光隆はこれを手放すことはしなかった。この数日間は別だったが。

太陽が出ている時間、ライエルの姿はどこにもない。光隆はあえて探そうとはしなかった。

湖まで歩くと、日の光を浴びて、輝く美しい湖が見られる。夜は静かに、月光を浴び、昼間は日の光で輝く。そんな湖が光隆は好きだ。

濁りのない水に顔をつけると、眠気が一気に跳ぶ。裾で顔拭い、足を水につけた。

ひんやりしていて気持ちがいい。

日光浴には最適だった。

中途半端に伸びてきた髭を気にしながら、ゆがんだ鏡をのぞき見た。

ライエルは陽が沈むと姿を現す。それがヴァンパイアだからだというのは百も承知だ。

光隆はライエルに興味があった。ライエルとかかわるには夜の活動が要求される。夜の仕事は多かったが、こうも続くことはない。ここまでくると、健康とはいえない生活を身体に強いている。

今が昼間といえど、陽はとっくに頂上を越えてしまっていた。

陽に当たる時間も減ったせいか、妙にげっそりしているのだ。

「このままでは私もヴァンパイアってやつになりそうだ。」

湖の中の光隆が不気味に笑う。

大きな伸びをした。背骨がギシギシと悲鳴をあげる。あと、数時間もすればライエルはやってくる筈だ。それが待ち遠しかった。

ごろりと横になったその時だ。森の中から勢いよく太秦が現われた。まっすぐこちらに向かってきたようで、体にはいくつもの落ち葉が絡まっていた。

太秦という獣に慣れた光隆は、横目で見やるだけだった。しかし、太秦は憤慨したかのように、唸り声を上げ、光隆の着物の端を引っ張った。

「来いといっているのか?」

仕方なく立ち上がると、太秦はまだ満足いっていない様子で、着物の端は引っ張るままだった。

「着いて来いと言っているのだろう?わかったから離せ。」

太秦は少し走り、振返る。着崩れた着物など直している暇はないらしい。光隆はため息をついて太秦についていった。

森の中は異様に暗かった。陽を通さない。まるでライエルのためにあるようだ。

光隆は何度も舌打ちした。道がないからだ。その上暗く、何も見えない。足にかすり傷がいくつもできている。頼れるのは時々振返る太秦の光る瞳。

慣れない道、否、森を走り慣れていない光隆に気づかってか、太秦は少し走り振返る。

「どこまで行く気だ。」

軽々と走る太秦が妙に腹立たしかった。止まって振返る行為でさえ、見下されているようだ。

嗅ぎ覚えのある異臭に気がついたのは、光隆の息もあがりかけてきた時だ。

「何を考えてこんなところ…。」

異臭が強くなる。上がった息を整える間も無く、ドーンという大きな音が響いた。

「何だ?!」

太秦が音に向かって走り出した。光隆もついていく。

人の声。獣の唸り声、新鮮な血の臭い。物と物とがこすれる音。慣れない足音。

「まだ鬼退治をやっていたのか。」

どうやらあながち、佐伯の言っていることは嘘ではなかったのかもしれない。

太秦は光隆を置いて戦場に行ってしまったようである。

ライエルはここにいる筈だ。光隆が鬼退治に来た時もライエルはここにいた。

「助けろということか?」

久しぶりに刀を鞘から出してみる。いつものように嬉しそうに光ることはなかった。光がないからだ。それでも刀は唸っていた。私を使えと、血を欲しているのだ。

「仕方がない。」

ゆっくりと戦場に近づく。人の声が鮮明に聞こえる。近くにいる。

火の玉のような光が数個中に浮いていた。人間のものだ。

「先ほどの音は大砲かその類か。」

刀の時代は終わりを告げたと、刀とは縁遠い役人達が口をそろえていっていたのを覚えている。

「久しぶりに辻斬りの真似事をするものいいかもしれぬ。」

ニヤリと笑った先に、重そうな鎧を背負った男たちが微動だにせず、先の方を見つめていた。

見つめる方向には、いくつもの光が見えた。これは先ほど光隆が追っていた光と同じものだ。獣の瞳である。

太秦のもの以外にもあるようだ。光りの数が半端ではないのだからこの山には太秦と同じ類の獣が何匹もいることになる。

「私が来る必要はあるのか?」

ライエルの姿はない。太秦が光隆を呼んだ真意がわからなかった。

先に行動したのは人間側だった。誰かが「火をつけろー!」と叫ぶ。それにあわせていくつもの火が目に飛び込んできた。

次いで、「投げろ!」と指示がある。その瞬間、一誠に獣に向けて火が投げつけられた。驚いて数歩下がる。

燃え上がる火で人間、獣双方の表情が見て取れた。

獣はジリジリと後ろへ下がる。

人間はまだ火を遠くへも投げつける。

一人、光隆を見つけた者がいた。

「堺光隆だ…。堺光隆の亡霊だっ。」

顔面蒼白とはこのことだ。一人が叫ぶと周りの者がどよめき、指差す方向へ目を向ける。  

確かに、堺光隆である。ただ、違うのは亡霊という単語のみ。しかし、亡霊といわれるのは当たり前だ。

鬼退治に出かけて数日。彼は江戸に引き返しえはこなかった。誰もが鬼も鬼を殺すことはできなかった。と、口にしていた矢先のことだ。

しかも、光隆のかっこうを見ればそう思っても仕方がなかった。

長い間走っていたおかげで、髪はぼさぼさであったし、着物は着崩れしていた。

落ち武者の亡霊を描いた絵と瓜二つ。

「亡霊とは、言われたものだ。」

光隆がため息をつく中、火は燃え広がっていた。

一匹空を気にする獣がいた。

ライエルだ。

光隆は直感した。陽を嫌うと何度も言っていた。こんなときに火よりも空を気にする獣があるとしたらライエルしかいない。もしくはライエルに関係するモノだということはわかった。

「さっさと決着をつけろ。と、太秦は言いたいのか?獣は言葉を話さないから困る。」

太秦が光隆をじっと見つめる。あぁ、わかっている。と光隆は刀を持ち直した。

「私の愛刀も、辻斬りの真似事をしたがっているようだ。肩は本調子ではないが、命の恩人のために人肌脱ごう。」

これで江戸には帰れまい。と、光隆は思った。なんにせよ、光隆は死んだことになるのだ。

とはいえ、それは光隆が一人でも殺し損ねた時に限るのだが。

「さて、久しぶりに切れ味をためさせていただこう。」

光隆が一歩近づくと、二歩下がった。燃え広がる火のおかげで恐怖におののく表情が見て取れた。

懐かしい感覚がよみがえる。一人、声をあげて逃げたものがあった。獣が数匹追いかけた。慣れない山道を走る男と鳴れた獣。どちらが速いかは一目瞭然だ。すぐに獣に追いつかれ、肩を思いっきり噛まれ、森の中へ引きずりこまれた。

それを見た人間が一斉に四方八方へと逃げ出す。我先にと、一人でも助かろうと逃げるだけである。

光隆が追う、獣も四方八方へ散らばった。

恐怖で足が思うように動かない男達は簡単に獣に喰われていった。

異臭の中に溶け込んでみると、心地がいい。光隆は刀を振りかざす。一人、また一人。

返り血を浴びるとニヤリと笑った。懐かしい感覚。愛刀も喜んでいるようだ。

人の数も減ってきた。何匹もの獣と光隆の手によればこんなものだ。しかし、火は燃え広がるばかり。光隆にもどうしようもない。

刀を鞘にしまうと、周りを見渡した。ライエルがいない。あの獣も。周りを見渡してみても、ライエルらしき人影も、あの獣の姿もない。いるのは屍を蝕む獣達。燃え広がる火を避けて獣は食事にありついていた。

このままでは山火事になる。しかし、そんな心配は必要なかった。雨が降り注いできたのだ。

「ちょうどよく降るものだ。」

光隆が空を見上げた。激しいといっていいほどの雨が降り注ぐ。まるで消化活動を行っているようだった。

雨に濡れた獣が一匹奥からやってくるのが見える。何をしたのか、疲れきっており、ぼろぼろだった。

ライエルだ。

獣は光隆に近づくと、じっと光隆を見つめた。

「ライエル?」

ライエルは何も答えない。答える前に倒れてしまった。

「ライエル?!」

抱き起こそうとしたその時、獣から人間の姿へと戻っていった。

「お伽話でもこんな展開はないぞ。」

光隆は目を見張ったが、どうしてかすぐにその状況を受け入れられてしまった。

何度呼んでも、ライエルは目を開けない。太秦が近づいてきてライエルの頬を舐めた。反応はない。

息はあった。虫の息と言ってもいいほどの弱々しいものではあったが、確かに生きている。

ホッとして、光隆はライエルを担いだ。太秦がじっと見つめる。

「大丈夫だ。家へ運ぶだけだ。」

歩き始めると、太秦は監視するようについてきた。

「お前は食事をしていてもいいんだぞ。明日になったら腐るだろうからな。」

太秦は光隆の言葉には耳も貸さず、気を失っているライエルばかりを目で追っている。

長い山道、人一人担いで登るのはたいした力が必要だ。

ライエルが軽いとはいえ、大人の男だ。子供のようにはいかない。

雨とともに汗が流れる。森を出る頃にはへとへとだった。陽は雲に顔を隠していたから、ライエルの苦手な陽に当たることはなかった。

あまり丁寧とはいえなかったが、布団の上に寝かせる。倒れた理由がわからないものだから、どうしていいのかもわからない。

光隆の時は簡単だった。怪我の治療をすればよいのだから。しかし、ライエルは別だ。怪我は一通り見たがなにもなかった。ただ、全身の力が抜けているような、そんな状態だった。

「どうすればいい?」

咄嗟に太秦の方を向いてしまったが、太秦がああすれ、こうすれなどと言う筈もなく、じっと見つめ返すだけだ。「なんとかしろ」と言われているようで、少し腹がたった。

どのくらい時間が経ち、どのくらい沈黙が続いたかはわからない。

ただ、予想外だったことは光隆が外に出て行ってしまったことだ。何も言わず、ふらっとどこかへ行ってしまった。

太秦は横目で見ただけでついてこようとはしなかった。ライエルが心配だからだ。

それから数分して、光隆は帰ってきた。随分と大きな水桶を持って。

上手く置いてやるが、水桶いっぱいの水は床に零れる。光隆の足を絡め、太秦の方まで達した。

冷水だ。それを口に含むと光隆は、すぐさまライエルの唇へと押し当てた。

意識のないライエルは簡単に口を開き、まだ冷たさの残った水を喉の奥へと流しこむ。

コクリ、コクリと喉がなった。それは救世主かのように、ライエルに救いの手を差し伸べる。

焼け付くような身体が少し、落ち着いた。まだ足りない。ライエルは喉を鳴らした。光隆がまた口移しで飲ませる。それが何回も続いたが、ライエルの身体は一向によくならなかった。

「…。うむ。仕方ない。」

水を飲ませるのをやめると、光隆は立ち上がり、重い水桶をもう一度持ち上げた。

タプンッと水がはねる。太秦は零れた水をなめていた。何をするものかと、見上げてみた瞬間、光隆は驚いたことに、その水桶をひっくり返してしまったのだ。勿論、ライエルの頭上で。

勢いよく、ライエルに冷水が落ちる。流れる、とは言いがたい程の勢いがあった。

ピクリと、ライエルの腕が動く。水の冷たさからか、勢いからかわからない。

微かに唇が動いた。何か言っている。口元に耳を近づけてみると、確かに「水」と口にしていた。

空になった水桶をみて、光隆は眉をひそめた。

「水か。」

光隆は、ぐったりとしたライエルを抱き上げると、外へ出た。勿論、太秦もあとから着いてくる。これではまるで監視だ。

外はまだ雨が降り注いでいた。まだまだ森の消化活動中らしい。今日の森は騒がしかった。

光隆は、雲が陽を隠していることを確認しつつ、湖へと向かった。

光隆にとってはライエルとの想い出が一番深い場所だ。

湖畔にライエルを寝かせると、手で冷たい水をすくった。口にその水を含むと、口移しでライエルの喉へと通してやる。

ピクリと反応する。意識が戻ったことをいいことに、光隆は嬉しそうに深く口付けた。

ただ、水を口移しするだけであったはずの口付けは、いつの間にか目的が変わっている。無抵抗のものにどうこうしようと思ったことはなかったが、ライエルは別だった。

苦しそうに唇を離そうと、ライエルは首を横に振った。

「目が覚めたか?」

耳元で囁いてやると、かすかに声を上げた。瞳をうっすらとあける。まだ、意識は遠いようだ。

光隆はまた、水を口に含んだ。勿論、ライエルのためだ。

口移しで水を飲ませると、そのまま深く口付ける。差し込まれた舌を押し返す力はライエルには残っていない。

今度は首を振ろうとも、光隆の手がそれを邪魔した。

「ん…。ゃ…」

「ようやく目が覚めたか。」

「光、隆…。」   
  
  
第五章A

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