十字架の罰
■第一章■
「やはり、厄介払いか…。」
ふと、思った。今日、この場に足を踏み入れたのは間違いであった、と。
雨は降らぬものの、外はやけに暗がりであった。それでも入ったのは、早く故郷に帰りたかった為である。
光隆はこの森の地理に詳しいわけではない。農民に案内を頼んだが、「とんでもない。」と断られてしまった。
「島流しの方が楽ではないか。」
文句ばかりがこぼれてしまう。無理もない。ここに人の通る道などないのだ。草を踏み分け踏み分け、与力や武士達の足跡が残る場所を歩いた。
あの時、奉行所になど足を運ばなければよかったのだ。あのくらいの同心ならば振り切ればよかったのだ。しかし、しなかった。振り切っていても、後を追ってくる者などいなかったのに。江戸の役人の数が減ったことを知らなかった、光隆、己のせいであると、後悔ばかりが後を追う。
異臭に気がついたのはそれから少ししてからであった。慣れぬ山登りで足腰はとうにやられていた。
休む場所はない。
「血生臭いな。」
ツン…っとした嫌な臭いだ。
思わず袖を鼻に当てる。歩けば歩くほど、異臭は強くなるばかりだ。何かあるのは確かだった。背を向けるわけにはいかない。それが仕事であるから。
一つ、気がついたことがある。歩きやすくなっている。
人が、たくさん踏み荒らしただけではない。
「獣か。」
異臭の中にその臭いはあった。
獣のものだ。
「ここで異変に気づき、逃げればよいものを…。」
どうして人は奥に行く?否、戻れなかったのだとしたら?
ふと、後ろを向いた。暗闇が続いていた。無意識のうちに後ずさっていた。無言の恐怖が襲い掛かる。
「…っ。」
何か足に引っかかった。木々がざわめく。体制は後ろに傾いた。
―転ぶ。
そう、思った。とっさに手が出る。手はかろうじて細い木にかすめたが、あっけなく転んでしまった。
尻の下に何か形の悪い物がある。手にベトリと何かついていた。木にかすめた時だ。
これは予感ではなく、確定だ。光隆も、もう戻れない。
「ここが墓場だったとは…。」
手にベトリとついた血を光隆は拭き取った。尻の下にある異物を掴む。生気をなくした人の腕が、光隆の確定を裏付けた。後ろにポイと捨てると、手をつき立ち上がる。気配があった。人ではない、否、人ではないような気配がある。腰の刀に手をかけた。
さらさらと、木の葉がこすれる。鳥の羽音が広がる。
「人とは諦めの悪い種であったことを久方ぶりに思いだしました。」
森に響くその声は、うっとりする程上品である。声は天から降りてきた。鬼とは天をも飛べるものか。それらしい羽音はしない。羽根は持ち合わせていないようだ。では、木の上か。鬼は猿のように身軽であるのか。
刺すような視線、やけにハッキリとした存在感はあるのに、彼はずっと襲ってこない。殺す気はないのか、その時を待っているのか解かりかねる。
「私は堺光隆。貴様が噂の鬼でございましょうか?」
森にクスクスと小さな笑い声が広がった。手にぐぐ…と力が入る。
「其方の言う鬼とはなんでしょうか。」
「わかりかねます。だから私もこうして自ら調べに来たのでしょう。桃太郎の退治した鬼がどんなモノか。」
「桃太郎とは、悪さをしていた鬼が退治される話でしょう?俺は退治されるような悪さをした覚えはありません。」
「これだけ人を殺めれば悪さと言えましょうに。」
高らかな笑いが広がった。森がざわめく。どこかで獣がむくりと起きた。鳥は困ったようにあちらこちらに逃げ回った。光隆は、細い黒目がちの目を一杯に広げて天を仰ぐ。しかし、木々が嘲るように踊るだけであった。
「人を殺めることは、森を汚すことよりも大罪と言うのですか?」
「…森を汚す?」
一瞬間があった。何やら話が見えない。光隆の眉間に自然としわがよった。
「其方、知らぬとは言わせません。其方も人間、ここを切り開き、農地にする。それに俺が邪魔なのでしょう?」
あぁ、なるほど、そういうわけだ。ようやく合点がいった。
光隆は騙されたのである。
町奉行にとって邪魔な鬼が二匹いた。森に棲む鬼と、町に棲む鬼。二匹を始末するにはそれなりの苦労がいるのだ。現にこの鬼を退治するのに江戸の与力を総動員させた。それでも無理だったのだ。
ならば、二匹を戦わせればよい。どちらが勝っても一匹は消える。あわよくば二匹息絶えるということもあるのだ。
光隆は騙された。鬼と偽り、善良で森を愛するこの彼を殺めさせようとしたのだ。ただ、邪魔という理由で。
それにしても演技達者な奉行だった。
「そのようだ。しかし、私も邪魔な鬼の一匹にすぎんようだ。」
怒りはなかったように思える。、騙された自分に同情すらした。
「すまなかった。どうやら私は貴様の邪魔をしたようだ。私は貴様を切るつもりはない。ここを抜け、東北の方に行きたい。道を教えてはくれぬだろうか?」
刀に置いた手はもう空を握っていた。天を見上げてそう言った時、スッと目の前を風が切った。足元の枯葉が舞う。
彼の気配はすぐ目の前だ。光隆は目を見開いた。どうやら「鬼」というのはあながち嘘ではないようだ。そこには冷静な自分がいた。話に聞く鬼は牛の角をはやしたなんとも恥ずかしい格好の怪物であった。
しかし、彼は違う。金閣寺をもしのぐ見事な金の髪と、赤く光る双方の瞳。暗闇に浮かぶ白い肌。美しいという形容のよく似合う、しかし、異形の怪物である。
耽美な感動を決して感じることはなかった。その心の動揺は恐怖でもなく、不安でもなければ喜びでもない。しかし、心が騒いだ。
それは、初めて人を殺めた時の、あの感動に似ている。
「其方は何を考えているのですか?」
「うむ…説明するには長い。簡単に言えば、鬼退治をやめたのだ。」
「…人とはよくわからぬ。」
眉をひそめるのは彼の番だ。
「無理だ。この山は其方を通さない。ここの住人は人を嫌う。この山を墓場に選ぶというのですか?」
「その時はその時。どうせどこに墓を置こうと手を合わせに誰もこない。ならば、私に恨みを持つ者に蹴られるより、この暗闇に消えた方がましであろう?」
じっと彼は光隆を見つめた。どうやら案内をする気はないらしい。光隆はため息をついて歩きだした。彼を横切り、奥へと進む。恐怖心はもう暗闇に溶けてしまった。
この山を登りきれば、辿りつくのは江戸とは違う町。それで良かった。あの様子だと、江戸の役人は人不足だ。追われる心配はない。
死に恐怖も感じなかったし、光隆は一旦引き受けた仕事を放棄したのだ。江戸に戻ることはできない。
彼は振返り、光隆の背中を見た。数歩、いや数十歩歩いた時、光隆は嫌な気配を感じた。
「嫌われているというのは本当の様だ。」
ため息混じりに呟いた。目の前に一匹の山犬が、その獰猛さを誇示したような鋭い牙を口の間からのぞかせる。殺意むき出しの目に、光隆は刀を手にかけた。ニヤリと笑いがこぼれる。
身体は血を欲しているのだ。それを察したのか、山犬が大きく飛び上がった。
光隆が刀を抜こうとしたその時だ。
「太秦っっ!」
彼の叫び声だ。『太秦』とはこの山犬の名か?この山犬は彼の飼い犬か?光隆は動けなかった。身体が強張った。死の瞬間がこれほどつまらないものだとは思いもよらなかった。
宙に足が浮いた。
あぁ、これが死の瞬間だ。冷静に物事を見つめている。死とは安易なものだ。
視界はもう閉ざされていた。真っ白な世界だ。
もう一度、叫び声が聞こえたような気がしたが、血の臭いが脳内に達してよく聞き取れなかった。
そして、意識は光隆のものではなくなった。
第一章 完
第二章
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