十字架の罰

  
■第二章■   



夢を見た。数年ぶりに見た夢だ。最近では夢を見る程安らぐことがなかったのだから、仕方のないことだ。もう死んだ自分に周りへの警戒など必要なかった。だから、最後の夢を見る。

夢を見た。それは白くて辛い夢であった。これは夢ではなく、地獄へ進む途中の記憶なのかもしれない。白い道。いや、道ではない。しかし、それでも道なのだ。白い空。白い空気。白い、全てが白い。

私は白い道を歩く。誰かが足を掴んだ。足を見やると、真っ赤な手が私を掴む。否、私の足はない。いや、ないのではない。私の色も白か、そのようなものだ。

いくつもの赤い手が、私を掴む。早く地獄へ来いと言うのだ。よく見たら見たことのある手にも感じる。

私の切った腕の一つだろう。最早、恐怖もなかった。悲しみだけがこみ上げた。因果応報とはこのことだ。しかし、これだけでは罪を償うのには全然足りない。死んでもまだ長い道を歩かねばならぬとは…。

ため息がこぼれる。

―それで彼らは気が済むのだろうか?

そしてその夢は終ってしまった。それは、ざらざらとした、なんとも言い難い感触によって。

湿っていて、本当に嫌な感触だ。

あぁ、これは何だ?確かめるには、この重いまぶたを開ける必要があるようだ。

「…。」

ゆっくりと開いた双方の瞳には、小柄な山犬が映るだけだった。

あの、山犬だ。

「うずまさ…。」

確か、そのような名である。光隆は眉を寄せる。確かあの時、光隆はこの山犬、太秦に喰われたのだ。

太秦は光隆の上に乗り、ずっと頬を舐めていた。

ざらざらとした感触はこれだったのだ。太秦の灰色の瞳に、光隆が写る。少し、頬の肉が落ちた。顔色もよくないように見えた。光隆が声を上げると、太秦はすぐに上から降り、光隆に背を向けた。

彼が看病してくれたのか?

そんなわけがない。右肩に違和感を感じた。それが、ひどい傷だとわかったのは、ほんの少し、腕を動かした時に走った激痛のせいだ。

首を少し動かしただけでも激痛が走る。

数分の間に、光隆は何度も顔をゆがませた。

ここはどうやら人の住処らしい。よく見慣れた武家屋敷よりも古く、寝殿造りとも違った。山小屋のような古さはあったが、ずっしりとした安定感がある。

光隆はゆっくり息をついた。どうやら死んではいないらしい。

「目が、覚めたようですね?」

目だけで反応すればいいものの、首がしっかりと動いた。勢いよく首を曲げ、その衝撃で声を上げた。後悔したのはその時だ。

「っつうっっ…」

顔を歪める。男は駆け寄ってきた。そう、あの鬼だ。

「大丈夫ですか?!」

大丈夫な筈がない。大丈夫ならば声など上げぬ。と、頭で思う。金色の髪が揺れる。触れてみたいと思った。胸の辺りを金の糸がくすぐるのだ。手を伸ばせば届くのに、身体はそれを許さない。

「痛いが、少し我慢して下さい。」

鬼は光隆の身を少し起こした。左腕で身体を支える。

電気が走ったような激痛だ。奥歯に力が入った。しかし、これ以上格好の悪いところは見せられまい。

ゆっくりと包帯が外された。血の臭いが鼻をかすめる。光隆の落ち着く臭いだ。

「ありがとうございます。」

男は呟くように言った。今にも消えそうな声だったが、間近にいたので聞き取れた。

「なぜ、貴様が礼をする?助けられたのは私だ。」

「太秦を切りませんでした。」

光隆は苦笑する。鬼とは情の深いものかもしれぬ。

「あの山犬の方が強かっただけとは思わぬのか?」

「いや、あの時、俺が声をかけていなければ、其方は太秦に勝っていました。俺のせいです。」

「礼を言う必要も、謝る必要もない。私が好きで喰われた。貴様のせいではないさ。」

恩を売るのは光隆の趣味ではなかった。それに、光隆にとってそんなことどうでもよいことであった。

ジクジクといった痛みが後に続く。こんな傷を作るのは初めてだったので、光隆は少し戸惑った。右腕に心臓が移動してきたようだ。ドクドクと波打っている。そんな気がした。

鮮血が光隆の肌を染める。流れ落ちる鮮血を鬼はじっと見つめていた。ゴクリと喉が鳴る。喉の渇きが襲った。薬を置くと床に手をついた。

もう、理性など残っていない。

「おい?」

光隆はすぐに異変に気がついた。しかし、光隆の声に貸す耳はもうない。ゆっくりと光隆に近づくと、光隆の流れた鮮血に口付けた。

光隆は眉をひそめた。何もできなかったのは、その真っ赤な瞳が美しかったからだ。

鬼は流れた血を少しも残さずに舐め上げた。待ち望んでいたものが、喉の奥を通る。幸せの時だ。目を細めた。まだ足りぬ、と喉が鳴く。傷口に吸い付くと、薬の苦味と血の甘味が混じっていた。

それでも美味と感じる。あぁ、もうおかしくなった。

そう思った。

「あぁっっ…くぅっ」

鬼がさらに強く傷口を吸い上げた時だった。光隆が我慢しきれずに声を上げたのは。

その声に理性が戻った。ふと顔をおこした。苦痛に顔を歪める男がそこにはいた。

「あ…。」

やってしまった。そう、思った。罵られる覚悟はしていた。しかし、光隆は息をついただけであった。荒い息遣い。そうとうの苦痛だったのであろう。血の気のない顔が、少し笑って彼を見る。

「どうやら、鬼というのも、血を吸うというのも、嘘ではないらしい。」

眉をひそめた。光隆の笑っている理由がわからない。じっと見つめる。

「名前は?」

「…ライエル。」

「ふむ。変な名だ。鬼とは皆、そんな名をしているものか?それともライエル、お前だけがそういうな名のか…。私は堺光隆。光隆と呼んでくれてかまわない。」

「…。」

ライエルはただただ呆然とするのみだった。光隆はそんなライエルなどおかまいなしに、視線を右肩に集中させ。傷口の具合を確かめる。

「光隆、光隆は俺が怖くはないのですか?」

光隆はふと、眉をひそめた。何度見てもため息が出る。暗闇の時とは違う美しさがある。美しいブロンドは、腰の辺りまで伸びていて、真っ赤な瞳は今は落ち着いている。獣の獰猛さがまるでない。あの時見た瞳と、同じものとは感じられない。

「…ふむ。確かに人間離れはしているな。」

それだけだろう?と、簡単に言うと困ったようにライエルは笑った。

「それより、さっさと包帯を巻きなおして欲しい。そろそろ左腕が疲れた。」

慌ててライエルは薬を塗った。痛みに顔を歪めたが、光隆はこの傷に慣れたようである。慣れない手つきで治療するライエルの手をじっと見た。

「ライエルは、どうしてこの山にいるのだ?」

包帯を巻きつつ、ライエルは眉をひそめた。悪い質問をしたのか。

「気がついたらここに来ていたというのが本当です。神が私を呼んだのでしょうね。」

微笑みが美しかった。ライエルほど美しい者を光隆は見たことがない。彼が女ならば、この時点で口説いているだろう。

「神?」

「この山に棲む竜神です。とても静かな方ですが、この山を愛している。」

「…。」

「どうしました?」

光隆の目が点になっていることは確かだった。鬼に神。鬼がいるのだから神がいてもおかしくはないと、妙に納得している。

「神が、いるのか?」

「おかしいですか?」

一つ、光隆は頷いた。ライエルは困ったように首を傾げる。

「私は神は見たことがない。勿論、この日まで鬼も見たことがなかった。」

ライエルは光隆をゆっくりと寝かせ、部屋から出ようとした。

「そのうち、会えますよ。」

最後に微笑んで、彼は出て行ってしまった。呆気にとられていた光隆は、口の開いたままライエルを見送る羽目になった。

「神とは…。」

妙な体験をしている。もしかしたら夢の続きかもしれない。こういう時は寝るに限る。

もう充分寝たと思われたのに、光隆はすぐに眠りに落ちていった。夢は見なかったが、心地よい眠りであったのは確かである。

第二章 完   
  
  
第三章

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