十字架の罰
■第八章■
真っ赤な涙を流す小さな少年がいた。衝動にかられ、そっと手を伸ばすが、彼を触ることはできなかった。
光隆はふと、コレが夢だと知った。
また、同じところを怪我してしまった。
また、治るのに数日かかるだろう。
また、ライエルの世話になろう。
まだ、一緒にいる理由があることに光隆は喜びすら覚えた。
「ライエル…」
そう、彼を呼ぶと、彼は水に溶けてしまった。
そこで夢は終わり、重たい瞼がゆっくりとだが上がる気配を見せる。
かすかに明るくなった視界から、今が昼なのだと言うのがわかった。一日中寝てしまったのか、はたまたそんなに眠っていないのかはわからない。
「光、隆…。」
空から声が降ってきた。か細い声で光隆を呼ぶ。まだ光隆の目には薄い靄がかかっていて、ライエルの姿は見当たらなかったが、正気が戻ったようで光隆は安堵した。
「ライエル。どうした?」
ライエルが泣いているような気になって、手探りでライエルを探すと、そっとライエルが光隆の手を握り返した。
「すみません。また、肩を…」
声を殺して泣いているようだ。
「また、治せばいい。」
光隆が強く手を握ると、ライエルも声を出して泣き出した。
不安になって、光隆はゆっくりと起き上がった。肩の痛みは太秦に喰われた時よりも酷くない。噛み切るのではなく、血を吸われただけだからであろう。
ライエルは枕元で、小さくなって泣いていた。太秦の姿はない。
「ライエル。」
真っ赤な瞳がさらに赤くなる。くしゃくしゃの顔を撫でると、さらに泣き出した。
「どうした?」
ライエルは首を横に振るので精一杯だった。そんなライエルを見ても光隆は抱きしめること以外はできなかった。
「ライエル。」
小さく、はっきりとその名を呼ぶ。
「みつ、た…」
優しく頭を撫でてやる。慰めるなどという行為に慣れていない光隆にはこれくらいしか思いつかない。
「俺は…。」
「ん?」
「もう一緒にいられないのです…」
また、嗚咽が聞こえてきた。胸の中のライエルが泣き止むことはない。
「ライ、エル?」
光隆にはよくわからなかった。ライエルの言っている意味が全くと言っていいほど。
「どうした?何があったんだ?」
ライエルは首を横に振るばかりで何も答えようとはしない。光隆も、そんなライエルを見て強く問いただすのはいけないと、ただただ頭や背中を撫で落ち着くまでそっとしておくことにした。
『ごめんなさい』と呟くライエルに光隆は首を傾げるしかない。自分が眠っている間に彼に何が起きて、彼がどうして一緒に居ることができないのか、光隆には皆目見当もつかなかった。
それから数時間、彼は光隆の中で泣き止まなかった。光隆も光隆で、何も言わずじっとしていたのだ。
落ち着いたライエルが口を開いた時には、外が暗くなっていた。
光隆の誘いで、二人は外へと出た。いつもの湖の畔で、二人は並んで座った。
「俺は、父を知りません。」
ライエルの言葉に、光隆はただただ、耳を傾けることにした。
「そして、母も知りません。俺が生まれた時には二人ともいませんでした。」
ライエルは何かに耐えるように息を吐き出した。
「光隆、俺の一族の話を聞いてくれますか?」
光隆は小さく首を縦に一度だけ振った。
昔々のことだ。
ライエルの祖先は、小さな教会の神父であった。村人から愛され、そして村人を愛していた。
彼には父親はいたが、母親はいなかった。父は彼に母は病気で幼い頃に死んだのだと教えられた。父は母のことを思い出すと毎晩泣いていたので、彼は母の話をしないようにしていた。
まもなくして父も帰ってはこなかった。近くの川で父の衣料品が見つけられたことから、母の死を悔やみ父は川で自殺したのだと考えられた。
二十の時に、彼は恋に落ちた。隣りの大きな街の金持ちの娘だった。
二人は愛し合ったが、娘の親は決して結婚は許さなかった。
彼は娘との結婚を諦め、村で神父を続けることを決意した。しかし、娘の方は彼を忘れられなく、一人家を出て彼とともに暮らすことを選んだ。
年月が過ぎ、秋の頃娘は身ごもった。彼の子供だ。
村人は喜んだ。彼ら以上に喜んだのだ。
しかし、一年が過ぎ二年が経っても子供は生まれてはこなかった。
腹を蹴るも娘の身体から出ようとはしなかった。
不気味に思った彼は医者に娘を見せたが、医者は「大丈夫、大丈夫」と微笑み、帰っていった。
十年の月日が経ったある日、娘がすごい形相で彼を向えた。まだ、彼女のお腹は大きいままである。
『私を騙したのね…』
彼は娘の言っている意味がわからなかった。娘は涙ながらに本を投げつけ、外へと出てしまった。
娘に投げつけられた本は、一冊の古びた日記だった。
それは父のものだった。
たまたま娘が部屋を掃除していたみつけたものだった。
そこに書いてあることに彼は驚きを隠せなかった。
彼の父はヴァンパイアと呼ばれる人の血を吸って生きている種族だという。
そして、この村の人も。
ヴァンパイアに女は生まれないのだという。ヴァンパイアの女はみんな、ヴァンパイアから血を貰った人間なのだと。
ヴァンパイアは人間の女に子を生んでもらうのだという。
ヴァンパイアは十年女の身体で生きた後、生まれてくる。
生まれてきた子は、空腹のため母親を中から食らうのだという。
彼女は子供に食われながら言った。
『呪ってやる。この村を呪ってやる。』
「それから、俺たちヴァンパイアは陽を浴びることができなくなったそうです。」
ライエルが生まれる前の話である。
「それと一緒にいれぬ理由とは関係があるのか?」
光隆の問いにライエルは小さく頭を横に振った。
「いいえ。それから数十年、村人は陽を避けて行動しました。夜になれば行動できますから、生活が反転しただけで苦労はなかったそうです。」
光隆が頷くと、ライエルは困った様に光隆を見た。
「数十年後、本当の呪いの意味がわかったのです。」
「本当の呪い?」
ライエルが一つ頷くと、ゆっくり息を吸い込んだ。
「これは、村のある青年の話です。青年は隣の村の女性と恋に落ちました。しかし、その女性が嫁いですぐ、青年は亡くなりました。」
「…病気か何かだったのか?」
「いいえ、彼は健康そのものだったそうです。そのようなことが何度とありました。」
「呪い…か。」
「だと、村人は言っています。俺たちがわかっていることは二つ。」
一つは、愛する者の血を口にした十日後にヴァンパイアはこの世から消えるということ。
「そして、もう一つは愛する者が現れた時、三大欲求が増殖するようです。」
「…十日か。」
光隆は天を仰いだ。満天の星空には、消え入りそうな月が小さくなっていた。
「我ら一族は、決めたのです。この呪いを絶やすことを。そして俺は、この海に浮かぶ島に来ました。」
ヴァンパイアの一族は、世界に散った。人と離れて暮らすことで、呪われた血を絶やそうとしたのだ。
「昔の暮らしは幸せでした。食に困ることもなかった。」
ヴァンパイアは人の血を吸い、生きる。人が寝ている間に忍び込み、人が気づかない程度の血を喰らえばよかった。
しかし、山の中に人がいるわけもない。ライエルは動物の血を食らい生き繋いだ。
「町に降りればよかったではないか。」
光隆は首を傾げた。少し遠いが町に降りれば確かに食事はいくらでもできる。身軽なライエルならば降りることも可能だった筈だ。確かに目立つ風貌ではあるが、工夫をすれば隠せた筈。
「人を愛せば、呪いは絶えません。」
ライエルは悲しそうな顔をした。人を愛すことで、理性を失うライエルにとって、町へ降りることはある種の賭けであったに違いない。一目見て、という例がないわけではない。理性を失えば、一族の決め事を破ることになるのだから。
「ライエル、お前はあと何日で苦しみから解放されるんだ?」
光隆は、優しい笑顔でライエルを見た。それはまるで二人の別れを感じさせぬ程に。
ライエルは力なく首を横にふった。小さな声は「わからない」と確かに光隆の耳に届いた。
「ライエル。私のことは心配するな。」
くしゃくしゃと、大きな手のひらはライエルの金色の髪を撫でる。
「森が心配ならば、それも無用だ。時が来るまで私がここを守ろう。私は生きる鬼だ、怖いモノなどない。」
ライエルは笑っていなければいけないと思った。光隆がそうしているように、別れを嘆いてはいけないのだと感じた。
必死に笑顔を作る代わりに、ライエルは言葉を口にすることができなかった。一言でも何か言ってしまえば、涙が流れる予感がした。
それをわかってか、光隆はライエルを優しく抱きしめた。今までで一番優しく。
「ライエル。約束してくれないか?」
ライエルが顔を上げると、微笑む光隆がそっと耳元で囁いた。馬鹿げた約束だ、と光隆は笑ったが、ライエルは何度も何度も頷いた。
それから二人は、家へと戻りただただ寄り添って眠った。他愛のない話に花を咲かせた。なかなか寝付けないライエルの為に、光隆は色んな話をした。昔の話など、人を斬った思い出しかなかったが、それでもライエルは幸せそうに耳を傾けた。
眠りにねむりについたのは朝型頃だっただろうか?
朝日はまだ差してはいなかったと思う。
光隆はいつの間にか転寝をしていたようだ。ライエルをしっかりと、離すまいと抱きしめながら。
小鳥の囀りが聞こえる頃である。太秦が帰ってきたのは。
前足を上手に使って扉を引くと、光隆の小さな背中だけが見えた。
ライエルの姿はそこにはなかった。
太秦は、躊躇いがちに光隆へと近づいた。
「太秦、昔、静かな母が私に言ったことがある。」
『男は泣いてはだめ。泣いて良いのはお母さんが死んだ時と、財布を落とした時だけよ。』
光隆は腕で顔を覆ってはいたが、太秦にはそれがどういうことを意味しているのかわかっていた。
「泣いてはいけないのはわかっている。ライエルは苦しみから解放されたのだ。最後まで泣かないと私は決めたのに、泣かずにはいられぬ。」
涙はあふれ、床をぬらした。太秦は、何も言わない。
「ライ、エル…」
名を呼んだところで、彼はもどってはこない。彼は、光隆と出会うことで、苦しみから逃れられたのだから。
太秦は、開いた胸元から見えた財布をくわえると、さっさと表へと出てしまった。
第八章 完
後書
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